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第2話 撮られた背中

Autor: なつめ
last update Data de publicação: 2026-08-03 21:24:08

第2話 撮られた背中

 背後で落ちた水滴の音は、一度きりだった。

 澪は机の端を掴んだまま、振り返れずにいた。指先へ力を込めるほど、爪の下が白くなる。スマートフォンの青白い光が、倒れた椅子と床へこぼれたコーヒーを照らし、その向こうの暗闇だけを避けているように見えた。

 濡れた靴で歩く音は止んでいる。

 それがかえって怖かった。

 廊下の途中で立ち止まり、こちらを見ているのかもしれない。あるいは、もう背後まで来ているのかもしれない。

 澪は息を吸った。喉の奥が狭くなり、空気がかすかな音を立てた。

「朔……」

 声にすると、名前だけが頼りなく暗闇へ落ちた。

 画面には先ほどの通知が残っている。

 二人目、既読。

 その下で、神代朔の連絡先が淡く光っていた。

 澪は震える親指で通話ボタンを押した。

 一回。

 二回。

 三回目の呼び出し音が鳴り始めたところで、回線がつながった。

『メールを開いたのか』

 挨拶より早く、朔の低い声が耳へ届いた。

 澪は返事を忘れた。

 受話口の向こうでは、キーボードを打つ乾いた音が続いている。朔は眠っていなかった。驚いた様子も、こちらの電話を不審に思う間もなかった。

「どうして……」

『開いたんだな』

「うん。でも、どうして分かったの」

『俺のところにも来た』

 朔の声は平らだった。

 平らすぎて、その下に何があるのか分からない。

 澪はスマートフォンを強く耳へ押し当てた。誰かの呼吸が混ざっていないか確かめるように、音へ意識を集中する。

「同じメール?」

『差出人は椎名澄花。件名は返してください。七つの住所と、七刻女学校へ来いという文面』

「写真も?」

 キーボードの音が一瞬止まった。

『写真もある』

「澄花の顔が、黒くなってた?」

『最初はな』

 最初は。

 その言い方に、澪の胃が重く縮んだ。

「そのあと、変わった?」

『お前の顔が消えた』

 澪は唇を閉じた。舌の奥にまだ鉄の味が残っている。

 同じものを見た。

 自分だけではない。その事実に安堵するはずだった。けれど、誰かが二人の端末へ同じ瞬間に同じ異常を送りつけたことになる。

 廊下の方で、小さく木が鳴った。

 澪は肩を跳ねさせた。

『何だ』

「さっき、玄関の鍵が開く音がして……誰かが入ってきたみたいに、足音がした」

『今もいるのか』

「分からない。暗くて、見えない」

『ブレーカーは』

「確認できない。玄関の近くにあるから」

 朔は短く息を吐いた。苛立ちではない。考えるときの呼吸だった。

『画面を見せろ』

「画面?」

『共有を送る。許可しろ』

 すぐに通話画面へ通知が重なった。

 神代朔が画面の共有を求めています。

 澪は指を滑らせ、許可を押した。

 画面の端に小さな赤い印が現れる。直後、朔の声の向こうで複数のキーを叩く音が速くなった。

『メールを開け』

「また?」

『本文じゃない。右上の印を押して、詳細を出す』

 澪は言われた通りに操作した。件名と番号の下へ、送信時刻や受信経路を示す文字列が並ぶ。普段なら目に留めない数字と記号ばかりだった。

『少し待て』

 朔の声が遠ざかる。

 受話口の向こうで、椅子の脚が床を擦った。引き出しが開き、何かを机へ置く音がする。

 澪はその間も廊下から目を離せなかった。

 暗闇の奥には、輪郭らしきものすらない。それなのに視線だけを感じた。人の目ではない。もっと低い場所から、床へ這いつくばって見上げているような気配だった。

『出た』

 朔の声が戻る。

「何が?」

『表面上は普通の携帯回線だ。番号も、八年前に椎名が使っていたものと一致してる』

「じゃあ、本当に澄花の――」

『最後まで聞け』

 静かな声なのに、言葉は澪の動揺を切り落とした。

『送信元は偽装されてる。国内の中継を二つ、海外の匿名接続を三つ通してる。雑な隠し方じゃない。追跡される前提で、わざと経路を残してる』

「わざと?」

『見せたいんだろうな』

 澪の指先が冷えた。

「何を」

 返事の前に、朔のキーボードが一度だけ鳴った。

『最後の接続先』

 その声が、わずかに低くなる。

『七刻女学校の校内ネットワークだ』

 澪は聞き間違えたと思った。

「何……それ」

『学校内で使われていた管理用の回線。職員室と視聴覚室、それから図書室の端末をつないでた。識別名が残ってる』

「でも、あそこは八年前に閉鎖されてる。電気だって通ってないはずでしょ」

『そうだ』

「回線も?」

『とっくに停止してる。設備が残っていても、外へつながることはない』

 窓ガラスを雨粒が打った。

 それまで消えていた外の音が、急に戻ってきた。

 排水管を流れる水が壁の奥で唸り、冷蔵庫が低く震え始める。壁時計の秒針も動いている。

 パソコンの画面が明滅し、白い文書画面が蘇った。

 部屋の蛍光灯だけがつかない。

 澪は目を細めた。パソコンの時計は午前零時二十一分。スマートフォンの表示は、まだ午後十一時三十八分だった。

「朔、こっちの時計が変なの。ずっと同じ時刻で止まってる」

『俺もだ』

「そっちも?」

『メールを開いてから、端末だけ十一時三十八分のまま動かない』

 朔は淡々と答えた。

 澪は胸元を押さえた。鼓動が速い。けれど、電話の向こうの朔は、異常を並べても声を乱さない。

 昔からそうだった。

 廃校へ入った夜も、朔だけは落ち着いていた。

 誰かが階段で転んだときも、放送室から女の歌声が流れたときも、澄花が見当たらなくなったときも。

 あの暗い廊下で、朔はカメラを肩へ担ぎ、澪へ言った。

 動くな。ここにいろ。

 今と同じ声だった。

「誰が、こんなことをするの」

『俺たちを呼び出したい人間がいる』

「澄花じゃないってこと?」

『死んだ人間はメールを送らない』

 迷いはなかった。

 刃物のように、言葉がまっすぐ届いた。

 安心するはずだった。

 澄花は死んでいる。これは生きた人間の仕業だ。そう決めてしまえば、暗闇にも、水音にも、説明がつく。

 それなのに、澪の胸の奥はさらに冷えた。

「朔は、澄花が死んだって思ってるんだ」

 沈黙が落ちた。

 受話口の向こうで、朔が呼吸する気配だけが聞こえる。

『あの血の量で、生きていたとは考えにくい』

「遺体は見つかってない」

『澪』

「警察だって、死亡した可能性が高いって言っただけで――」

『今はそこを争うな』

 強い声ではなかった。

 けれど、澪は口を閉じた。

 朔が澄花の名を口にするとき、いつもわずかな間がある。その間の意味を、澪は八年間聞けずにいた。

『警察へ連絡しろ。メールも写真も消すな。端末の時刻がおかしいことも伝えろ』

「信じてもらえるかな」

『信じさせる必要はない。通報した記録を残せ』

「記録……」

『誰かが部屋へ入った可能性があるなら、なおさらだ。玄関へ近づくな。戸締まりを確認するために動く必要もない。朝まで外へ出るな』

 命令するような口調だった。

 だが、言葉の端に、澪の呼吸を数えているような慎重さがあった。

『今からそっちへ行く』

「来なくていい」

 返事が早すぎて、自分でも驚いた。

『一人でいられるのか』

「分からない。でも、同じメールが来てるなら、朔が動く方が危ない」

『俺は――』

「来ないで」

 澪は机の端から手を離した。掌に木目の跡が赤く残っている。

「外へ出るなって、今言ったでしょ。朔も出ないで」

 短い沈黙のあと、朔が息を吐いた。

『分かった。警察へ電話したら、すぐ掛け直せ』

「うん」

『通話は切るぞ』

 その声に重なるように、廊下の奥で衣擦れがした。

 澪は振り向いた。

 何も見えない。

「朔」

『何だ』

「八年前、澄花は赤い紐を持ってたよね」

 自分でも、なぜ今それを訊いたのか分からなかった。

 電話の向こうで、朔が黙る。

『手首に巻いてた組紐か』

「覚えてるんだ」

『写真に写ってた』

「集合写真には、袖で隠れてたはず」

 また沈黙があった。

 先ほどより長い。

『別の映像だ』

「どの映像?」

『今は関係ない』

 朔の声が少し硬くなる。

『戸締まりをして、その場を動くな』

 通話が切れた。

 澪は暗くなった画面を見つめた。

 最後の言葉だけが、部屋へ残っている。

 その場を動くな。

 だが、玄関の向こうで誰かが待っている気配は消えていた。濡れた靴音も、床を擦る衣擦れも聞こえない。

 澪は警察へ電話しようとした。

 そのとき、短い振動が掌へ伝わった。

 新しい画像が一枚届いている。

 差出人は、椎名澄花。

 開く前から、胸の内側が冷たく固まった。

 それでも指は動いた。

 写真には、暗い部屋で電話を握る女の背中が写っていた。

 灰色の部屋着。

 肩までの髪。

 左手で机を掴み、右手のスマートフォンを耳へ当てている。

 数秒前までの自分だった。

 撮影位置は、玄関脇の廊下。

 腰の高さほどの位置から、少し傾いて撮られている。

 写真の中の澪は、電話の向こうへ意識を向けている。背後へ気づいていない。首筋に濡れた髪の束が貼りついているようにも見えた。

 澪は自分の首へ触れた。

 指先が水に濡れた。

「……いや」

 声が掠れた。

 画面を拡大する。

 写真の右下、廊下の壁際に、小さな影がある。撮影者の影ではない。人形の頭ほどの丸い形が、床から半分だけ覗いている。

 澪はスマートフォンを胸元へ抱えた。

 廊下を見た。

 誰もいない。

 見える範囲には。

 パソコンの光だけを頼りに、澪は一歩進んだ。

 床板が鳴る。

 その音へ重なる足音はない。

 もう一歩。

 壁に掛けた鏡へ、自分の横顔が映る。顔色は白く、目の下に濃い影が落ちていた。鏡の奥の玄関は暗く、扉は閉じている。

 チェーンも掛かったままだった。

 鍵も内側から閉まっている。

 誰も入っていない。

 そう思った直後、素足の裏が冷たいものを踏んだ。

 澪は息を詰め、足を上げた。

 床に水滴が落ちていた。

 親指の先ほどの丸い滴。

 その少し先に、もう一つ。

 さらに先へ、三つ目。

 澪は数えながら視線を進めた。

 一つ。

 二つ。

 三つ。

 四つ。

 五つ。

 六つ。

 七つ。

 七つ目の水滴は、寝室の隅にあるクローゼットの前で途切れていた。

 水滴は足跡になっていない。

 左右へ並ばず、一本の線のように等間隔で続いている。天井から誰かが歩くたびに、髪の先から一滴ずつ落としたようだった。

 クローゼットの扉は、わずかに開いていた。

 澪は立ち止まった。

 昼間、取材から戻ったあとに服をしまい、確かに閉めた。扉は少し力を入れなければ噛み合わない。自然に開くことはない。

 中から、湿った布の匂いがした。

 澪は唾を飲み込んだ。

 片手でスマートフォンを構え、もう片方の手を扉へ伸ばす。

 指が取っ手へ触れる。

 冷たい。

 引くと、金具が低く鳴った。

 コート、シャツ、取材用の黒い上着。狭い内部には、いつもの衣服が詰まっている。人が隠れられる隙間はない。

 澪は何度も奥を確かめた。

 誰もいない。

 肩から力が抜ける。

 扉を閉めようとしたとき、左端に掛けた冬物のコートが揺れた。

 窓は閉まっている。

 空調も止まっている。

 それでも、裾がゆっくりと左右へ動いていた。

 ポケットが不自然に膨らんでいる。

 澪は動けなかった。

 そのコートは春から一度も着ていない。最後にクリーニングへ出し、透明な覆いを外して掛けたままだった。

 膨らんだポケットの形は、細長いものが何重にも折り畳まれているように見えた。

 澪は指を差し入れた。

 内側は湿っていた。

 指先に、柔らかな糸が触れる。

 ゆっくり引き出す。

 赤い組紐だった。

 細い絹糸を幾重にも編み、端を小さな金色の留め具でまとめてある。長さは手首へ二周できるほど。水を吸って色が濃くなり、ところどころ黒ずんでいた。

 八年前、澄花が右手首に巻いていたものと同じだった。

 澪は覚えている。

 七刻女学校へ入る直前、澄花がその紐をほどき、門扉へ一度結んだ。すぐに外して手首へ戻したが、何のためかと訊くと、澄花は笑った。

 帰る道を忘れないため。

 そう言った。

 澪の指の中で、組紐がわずかに動いた。

 生きた虫のように締まり、手首へ絡みつこうとする。

 澪は息を呑み、床へ落とした。

 赤い紐は水滴の上へ落ち、細く弧を描いた。

 スマートフォンが震える。

 三通目のメール。

 それを持ってきて。

 欠席するなら、こちらから迎えに行きます。

 澪は画面と床の組紐を交互に見た。

 どこへ。

 訊く必要はなかった。

 最初は七刻女学校。

 明日の午前零時までに来てください。

 玄関のチャイムが鳴った。

 高く、乾いた電子音が、暗い部屋を切り裂いた。

 澪の身体が硬直する。

 誰かが扉の前にいる。

 呼吸を殺し、玄関を見つめる。

 二度目のチャイムが鳴った。

 一度目より長かった。

 押し続ける指の重さまで伝わるような音だった。

 澪はスマートフォンを握りしめる。朔へ掛けるべきか、警察へ掛けるべきか、判断できない。指先が震え、画面をうまく開けない。

 三度目の音を待った。

 鳴らない。

 代わりに、扉の向こうで布が擦れた。

 濡れた制服の袖が、金属の表面へ触れるような音。

 それから、少女の呼吸が聞こえた。

 近い。

 扉一枚を挟んだすぐ向こうに、口元を寄せている。

 八年間、夢の中で何度も呼ばれた声がした。

「澪ちゃん。開けて」

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