FAZER LOGIN第2話 撮られた背中
背後で落ちた水滴の音は、一度きりだった。
澪は机の端を掴んだまま、振り返れずにいた。指先へ力を込めるほど、爪の下が白くなる。スマートフォンの青白い光が、倒れた椅子と床へこぼれたコーヒーを照らし、その向こうの暗闇だけを避けているように見えた。
濡れた靴で歩く音は止んでいる。
それがかえって怖かった。
廊下の途中で立ち止まり、こちらを見ているのかもしれない。あるいは、もう背後まで来ているのかもしれない。
澪は息を吸った。喉の奥が狭くなり、空気がかすかな音を立てた。
「朔……」
声にすると、名前だけが頼りなく暗闇へ落ちた。
画面には先ほどの通知が残っている。
二人目、既読。
その下で、神代朔の連絡先が淡く光っていた。
澪は震える親指で通話ボタンを押した。
一回。
二回。
三回目の呼び出し音が鳴り始めたところで、回線がつながった。
『メールを開いたのか』
挨拶より早く、朔の低い声が耳へ届いた。
澪は返事を忘れた。
受話口の向こうでは、キーボードを打つ乾いた音が続いている。朔は眠っていなかった。驚いた様子も、こちらの電話を不審に思う間もなかった。
「どうして……」
『開いたんだな』
「うん。でも、どうして分かったの」
『俺のところにも来た』
朔の声は平らだった。
平らすぎて、その下に何があるのか分からない。
澪はスマートフォンを強く耳へ押し当てた。誰かの呼吸が混ざっていないか確かめるように、音へ意識を集中する。
「同じメール?」
『差出人は椎名澄花。件名は返してください。七つの住所と、七刻女学校へ来いという文面』
「写真も?」
キーボードの音が一瞬止まった。
『写真もある』
「澄花の顔が、黒くなってた?」
『最初はな』
最初は。
その言い方に、澪の胃が重く縮んだ。
「そのあと、変わった?」
『お前の顔が消えた』
澪は唇を閉じた。舌の奥にまだ鉄の味が残っている。
同じものを見た。
自分だけではない。その事実に安堵するはずだった。けれど、誰かが二人の端末へ同じ瞬間に同じ異常を送りつけたことになる。
廊下の方で、小さく木が鳴った。
澪は肩を跳ねさせた。
『何だ』
「さっき、玄関の鍵が開く音がして……誰かが入ってきたみたいに、足音がした」
『今もいるのか』
「分からない。暗くて、見えない」
『ブレーカーは』
「確認できない。玄関の近くにあるから」
朔は短く息を吐いた。苛立ちではない。考えるときの呼吸だった。
『画面を見せろ』
「画面?」
『共有を送る。許可しろ』
すぐに通話画面へ通知が重なった。
神代朔が画面の共有を求めています。
澪は指を滑らせ、許可を押した。
画面の端に小さな赤い印が現れる。直後、朔の声の向こうで複数のキーを叩く音が速くなった。
『メールを開け』
「また?」
『本文じゃない。右上の印を押して、詳細を出す』
澪は言われた通りに操作した。件名と番号の下へ、送信時刻や受信経路を示す文字列が並ぶ。普段なら目に留めない数字と記号ばかりだった。
『少し待て』
朔の声が遠ざかる。
受話口の向こうで、椅子の脚が床を擦った。引き出しが開き、何かを机へ置く音がする。
澪はその間も廊下から目を離せなかった。
暗闇の奥には、輪郭らしきものすらない。それなのに視線だけを感じた。人の目ではない。もっと低い場所から、床へ這いつくばって見上げているような気配だった。
『出た』
朔の声が戻る。
「何が?」
『表面上は普通の携帯回線だ。番号も、八年前に椎名が使っていたものと一致してる』
「じゃあ、本当に澄花の――」
『最後まで聞け』
静かな声なのに、言葉は澪の動揺を切り落とした。
『送信元は偽装されてる。国内の中継を二つ、海外の匿名接続を三つ通してる。雑な隠し方じゃない。追跡される前提で、わざと経路を残してる』
「わざと?」
『見せたいんだろうな』
澪の指先が冷えた。
「何を」
返事の前に、朔のキーボードが一度だけ鳴った。
『最後の接続先』
その声が、わずかに低くなる。
『七刻女学校の校内ネットワークだ』
澪は聞き間違えたと思った。
「何……それ」
『学校内で使われていた管理用の回線。職員室と視聴覚室、それから図書室の端末をつないでた。識別名が残ってる』
「でも、あそこは八年前に閉鎖されてる。電気だって通ってないはずでしょ」
『そうだ』
「回線も?」
『とっくに停止してる。設備が残っていても、外へつながることはない』
窓ガラスを雨粒が打った。
それまで消えていた外の音が、急に戻ってきた。
排水管を流れる水が壁の奥で唸り、冷蔵庫が低く震え始める。壁時計の秒針も動いている。
パソコンの画面が明滅し、白い文書画面が蘇った。
部屋の蛍光灯だけがつかない。
澪は目を細めた。パソコンの時計は午前零時二十一分。スマートフォンの表示は、まだ午後十一時三十八分だった。
「朔、こっちの時計が変なの。ずっと同じ時刻で止まってる」
『俺もだ』
「そっちも?」
『メールを開いてから、端末だけ十一時三十八分のまま動かない』
朔は淡々と答えた。
澪は胸元を押さえた。鼓動が速い。けれど、電話の向こうの朔は、異常を並べても声を乱さない。
昔からそうだった。
廃校へ入った夜も、朔だけは落ち着いていた。
誰かが階段で転んだときも、放送室から女の歌声が流れたときも、澄花が見当たらなくなったときも。
あの暗い廊下で、朔はカメラを肩へ担ぎ、澪へ言った。
動くな。ここにいろ。
今と同じ声だった。
「誰が、こんなことをするの」
『俺たちを呼び出したい人間がいる』
「澄花じゃないってこと?」
『死んだ人間はメールを送らない』
迷いはなかった。
刃物のように、言葉がまっすぐ届いた。
安心するはずだった。
澄花は死んでいる。これは生きた人間の仕業だ。そう決めてしまえば、暗闇にも、水音にも、説明がつく。
それなのに、澪の胸の奥はさらに冷えた。
「朔は、澄花が死んだって思ってるんだ」
沈黙が落ちた。
受話口の向こうで、朔が呼吸する気配だけが聞こえる。
『あの血の量で、生きていたとは考えにくい』
「遺体は見つかってない」
『澪』
「警察だって、死亡した可能性が高いって言っただけで――」
『今はそこを争うな』
強い声ではなかった。
けれど、澪は口を閉じた。
朔が澄花の名を口にするとき、いつもわずかな間がある。その間の意味を、澪は八年間聞けずにいた。
『警察へ連絡しろ。メールも写真も消すな。端末の時刻がおかしいことも伝えろ』
「信じてもらえるかな」
『信じさせる必要はない。通報した記録を残せ』
「記録……」
『誰かが部屋へ入った可能性があるなら、なおさらだ。玄関へ近づくな。戸締まりを確認するために動く必要もない。朝まで外へ出るな』
命令するような口調だった。
だが、言葉の端に、澪の呼吸を数えているような慎重さがあった。
『今からそっちへ行く』
「来なくていい」
返事が早すぎて、自分でも驚いた。
『一人でいられるのか』
「分からない。でも、同じメールが来てるなら、朔が動く方が危ない」
『俺は――』
「来ないで」
澪は机の端から手を離した。掌に木目の跡が赤く残っている。
「外へ出るなって、今言ったでしょ。朔も出ないで」
短い沈黙のあと、朔が息を吐いた。
『分かった。警察へ電話したら、すぐ掛け直せ』
「うん」
『通話は切るぞ』
その声に重なるように、廊下の奥で衣擦れがした。
澪は振り向いた。
何も見えない。
「朔」
『何だ』
「八年前、澄花は赤い紐を持ってたよね」
自分でも、なぜ今それを訊いたのか分からなかった。
電話の向こうで、朔が黙る。
『手首に巻いてた組紐か』
「覚えてるんだ」
『写真に写ってた』
「集合写真には、袖で隠れてたはず」
また沈黙があった。
先ほどより長い。
『別の映像だ』
「どの映像?」
『今は関係ない』
朔の声が少し硬くなる。
『戸締まりをして、その場を動くな』
通話が切れた。
澪は暗くなった画面を見つめた。
最後の言葉だけが、部屋へ残っている。
その場を動くな。
だが、玄関の向こうで誰かが待っている気配は消えていた。濡れた靴音も、床を擦る衣擦れも聞こえない。
澪は警察へ電話しようとした。
そのとき、短い振動が掌へ伝わった。
新しい画像が一枚届いている。
差出人は、椎名澄花。
開く前から、胸の内側が冷たく固まった。
それでも指は動いた。
写真には、暗い部屋で電話を握る女の背中が写っていた。
灰色の部屋着。
肩までの髪。
左手で机を掴み、右手のスマートフォンを耳へ当てている。
数秒前までの自分だった。
撮影位置は、玄関脇の廊下。
腰の高さほどの位置から、少し傾いて撮られている。
写真の中の澪は、電話の向こうへ意識を向けている。背後へ気づいていない。首筋に濡れた髪の束が貼りついているようにも見えた。
澪は自分の首へ触れた。
指先が水に濡れた。
「……いや」
声が掠れた。
画面を拡大する。
写真の右下、廊下の壁際に、小さな影がある。撮影者の影ではない。人形の頭ほどの丸い形が、床から半分だけ覗いている。
澪はスマートフォンを胸元へ抱えた。
廊下を見た。
誰もいない。
見える範囲には。
パソコンの光だけを頼りに、澪は一歩進んだ。
床板が鳴る。
その音へ重なる足音はない。
もう一歩。
壁に掛けた鏡へ、自分の横顔が映る。顔色は白く、目の下に濃い影が落ちていた。鏡の奥の玄関は暗く、扉は閉じている。
チェーンも掛かったままだった。
鍵も内側から閉まっている。
誰も入っていない。
そう思った直後、素足の裏が冷たいものを踏んだ。
澪は息を詰め、足を上げた。
床に水滴が落ちていた。
親指の先ほどの丸い滴。
その少し先に、もう一つ。
さらに先へ、三つ目。
澪は数えながら視線を進めた。
一つ。
二つ。
三つ。
四つ。
五つ。
六つ。
七つ。
七つ目の水滴は、寝室の隅にあるクローゼットの前で途切れていた。
水滴は足跡になっていない。
左右へ並ばず、一本の線のように等間隔で続いている。天井から誰かが歩くたびに、髪の先から一滴ずつ落としたようだった。
クローゼットの扉は、わずかに開いていた。
澪は立ち止まった。
昼間、取材から戻ったあとに服をしまい、確かに閉めた。扉は少し力を入れなければ噛み合わない。自然に開くことはない。
中から、湿った布の匂いがした。
澪は唾を飲み込んだ。
片手でスマートフォンを構え、もう片方の手を扉へ伸ばす。
指が取っ手へ触れる。
冷たい。
引くと、金具が低く鳴った。
コート、シャツ、取材用の黒い上着。狭い内部には、いつもの衣服が詰まっている。人が隠れられる隙間はない。
澪は何度も奥を確かめた。
誰もいない。
肩から力が抜ける。
扉を閉めようとしたとき、左端に掛けた冬物のコートが揺れた。
窓は閉まっている。
空調も止まっている。
それでも、裾がゆっくりと左右へ動いていた。
ポケットが不自然に膨らんでいる。
澪は動けなかった。
そのコートは春から一度も着ていない。最後にクリーニングへ出し、透明な覆いを外して掛けたままだった。
膨らんだポケットの形は、細長いものが何重にも折り畳まれているように見えた。
澪は指を差し入れた。
内側は湿っていた。
指先に、柔らかな糸が触れる。
ゆっくり引き出す。
赤い組紐だった。
細い絹糸を幾重にも編み、端を小さな金色の留め具でまとめてある。長さは手首へ二周できるほど。水を吸って色が濃くなり、ところどころ黒ずんでいた。
八年前、澄花が右手首に巻いていたものと同じだった。
澪は覚えている。
七刻女学校へ入る直前、澄花がその紐をほどき、門扉へ一度結んだ。すぐに外して手首へ戻したが、何のためかと訊くと、澄花は笑った。
帰る道を忘れないため。
そう言った。
澪の指の中で、組紐がわずかに動いた。
生きた虫のように締まり、手首へ絡みつこうとする。
澪は息を呑み、床へ落とした。
赤い紐は水滴の上へ落ち、細く弧を描いた。
スマートフォンが震える。
三通目のメール。
それを持ってきて。
欠席するなら、こちらから迎えに行きます。
澪は画面と床の組紐を交互に見た。
どこへ。
訊く必要はなかった。
最初は七刻女学校。
明日の午前零時までに来てください。
玄関のチャイムが鳴った。
高く、乾いた電子音が、暗い部屋を切り裂いた。
澪の身体が硬直する。
誰かが扉の前にいる。
呼吸を殺し、玄関を見つめる。
二度目のチャイムが鳴った。
一度目より長かった。
押し続ける指の重さまで伝わるような音だった。
澪はスマートフォンを握りしめる。朔へ掛けるべきか、警察へ掛けるべきか、判断できない。指先が震え、画面をうまく開けない。
三度目の音を待った。
鳴らない。
代わりに、扉の向こうで布が擦れた。
濡れた制服の袖が、金属の表面へ触れるような音。
それから、少女の呼吸が聞こえた。
近い。
扉一枚を挟んだすぐ向こうに、口元を寄せている。
八年間、夢の中で何度も呼ばれた声がした。
「澪ちゃん。開けて」
「……上げて」 掠れた声は、階段下の暗闇から聞こえた。 男とも女とも判別できない。喉を潰した人間が、長いあいだ声を出さずにいたあと、無理に息を押し出したような音だった。 五人は動かなかった。 朔が十二段目へ膝をつき、懐中電灯を空洞へ向ける。 白い光が、壁面をゆっくり滑った。 深さは五メートルほど。 底には使われなくなった机や椅子が乱雑に積まれていた。錆びた金属脚が絡み合い、崩れた木製の天板が斜めに立っている。古い配管が壁に沿って下り、底には雨水らしい黒い水が薄く溜まっていた。 人影はない。「誰かいるのか!」 悠斗が叫んだ。 返事はなかった。 先ほどまで聞こえていた爪の音さえ消えている。「空耳……?」 奈々香が美月の腕を掴んだ。「五人とも聞いた」 美月は空洞から目を離さない。「少なくとも、私には聞こえた」 澪も頷きかけた。 そのとき。 朽ちた椅子の隙間で、白いものが動いた。 細い指。 血の気のない小さな手が、折れた机の陰から一瞬だけ伸びたように見えた。「待って」 澪が一歩前へ出る。「今、手が」「何?」「下に誰かいる」 朔が光を戻す。 椅子の隙間。 何もない。「澪、離れて」 美月が肩へ触れた。「人がいるなら救助が必要。でも、まず安全を確認する。五メートルはある。下の床が抜けている可能性も――」「私が下りる」「駄目」「誰かがいるかもしれない」「だからこそ一人では下りない」 美月は強く言った。「さっき悠斗が落ちかけたばかりでしょう」 澪は空洞を見下ろした。 声。 白い手。 そして、耳の奥に蘇る八年前の澄花。『澪ちゃん。開けて』 助けを求める声を聞いた。 それなのに逃げた。 今度も同じことをしたら。「途中まででいい」 澪は朔を見る。「ロープをつけて。何かあったらすぐ引き上げて」「俺が行く」「朔じゃ駄目」「理由は」「私が見たから」 澪の声が僅かに震えた。「白い手を見たのは私。もしまた、私にしか見えてないものなら……私が確かめる」 朔は数秒黙った。 反対したのは美月だった。「危険すぎる」「でも、人がいるなら」「救助する側まで落ちたら意味がない」「分かってる」 澪は自分の腰へ手を当てた。「だからロープを使う」 朔は空洞と澪を交互に見た。 やがて、悠斗
少女が「十三」と数えた直後、東棟の照明がすべて消えた。 暗闇は一瞬だった。 それでも澪には、その短いあいだに誰かが階段を一段上ったように聞こえた。 こつ。 硬い上履きの底が、木の踏み板へ触れる音。 続いて蛍光灯が白く明滅した。 十二段しかないはずの階段の最上部に、もう一段増えていた。「……何、あれ」 奈々香が美月の袖を握る。 誰も答えなかった。 澪は階段を見上げた。 一階から踊り場まで、十二段。 八年前にも上った。今夜も何度も通った。幅の狭い古い階段で、七段目だけ踏むと軋む。十一段目には大きな欠けがあり、十二段目を越えれば踊り場へ出る。 その十二段目の上に、見覚えのない黒い踏み板があった。 十三段目。 しかも、その先に廊下が続いている。 三階へ上がる階段ではない。 踊り場の壁がなくなり、さらに上の階へ向かう長い廊下が伸びていた。 薄暗い窓。 左右へ並ぶ教室の扉。 天井から垂れる蛍光灯。 突き当たりの壁だけが、霧の中へ溶けるように見えない。「四階……?」 美月が呟く。「ない」 悠斗が即座に否定した。 声がひどく乾いている。「この校舎は三階建てだ」「図面にも?」 澪が訊く。「ない。屋上の設備室ならあるが、人が歩ける階じゃない」 朔は階段へ近づかず、小型カメラを構えた。「全員、その場から動くな」 液晶に十三段目と四階らしき廊下が映っている。 今度は、カメラにも存在していた。 朔は角度を変えた。 正面から。 壁際から。 床近くから。 どの角度でも、十三段目はある。 突然、照明が消えた。「動かないで!」 美月の声。 数秒後、明かりが戻る。 十三段目は消えていた。 その先の四階もない。 十二段目の先には、いつもの踊り場の壁がある。 奈々香が息を呑む。「今、なかった」「ああ」 朔はカメラを確認する。「映像からも消えてる」 また照明が瞬いた。 一度暗くなる。 白い光が戻る。 十三段目。 四階。 存在する。 照明の明滅に合わせ、建物そのものが形を変えているようだった。 澪のスマートフォンが震えた。 続いて四人の端末も同時に鳴る。 七つの学校章。 赤く塗られているのは三つ。 七人目の出席。 校歌。 姿見。 その下へ新しい文章が表示された。 十三段目に
東棟の階段から響いた重い音は、十三度目で止まった。 どん、と最後の一音が校舎の底へ沈み、そのあとには非常ベルだけが残った。 赤い警告灯が明滅するたび、割れた鏡の破片が床の上で光る。つい先ほどまで、その一枚には透の姿が映っていた。 階段へ行くな。 死んだ透の唇は、確かにそう動いていた。「行かない」 澪が言った。 自分でも驚くほど強い声だった。 悠斗が東棟へ続く扉を見た。「でも、今の音を確認しないと――」「透が行くなって言った」「鏡に映ったものを信用するのか?」「今は、何も確認できてないまま近づく方が危ない」 美月も澪の隣へ立った。「賛成。さっきのは人が階段から落ちた音にも聞こえた。でも、本当に人なら声くらい出てもおかしくない。先にここで分かることを調べる」 奈々香は返事もしなかった。左耳に当てたガーゼを押さえ、割れた鏡を見ないよう俯いている。 朔だけは非常ベルの周期を数えていた。 やがて胸元へ固定した小型カメラを外す。「舞踊室の映像を見る」 悠斗が苛立ったように振り返った。「今?」「今だからだ。俺たちが見たものと、記録されたものが一致してるか確認する」 その言葉に、澪の胸元で手帳が重くなった。 中には、澄花の字で書かれた楽譜が挟まれている。 朔が撮っているものと、私たちが見ているものは同じじゃない。 その一文を、澪はまだ誰にも見せていない。 朔は床へ膝をつき、カメラの液晶を開いた。 五人が横一列に並ぶところから映像を戻す。 一往復目。 五人。 二往復目。 五人。 澪たちの記憶では、鏡の中の悠斗だけが半歩遅れた。 だが保存映像では、悠斗もほかの四人と同じ速さで動いている。「違う」 澪が画面へ顔を近づけた。「ここ。悠斗が遅れたはず」「遅れてないな」 美月も確認する。 三往復目。 現実では、鏡の中の奈々香が一人だけ立ち止まった。 映像の中では、五人全員が同じ歩調で端まで進んでいる。「私、止まってたよね」 奈々香が掠れた声を出した。「鏡の中の私だけ。みんな見たよね」「見た」 澪が答える。 美月も頷いた。 四往復目。 澪の呼吸が浅くなる。 このとき、鏡の中には六人いた。 五人の後ろを、制服姿の少女が歩いていた。 右手首には赤い組紐。 けれど、小型カメラの映像には五人しか
西棟一階へ近づくにつれ、雨音が遠くなった。 代わりに、五人の足音だけが長い廊下へ乾いて響く。 東棟よりも荒廃が進んでいるらしく、天井には幾つもの穴が開き、壁紙は湿気を吸って垂れ下がっていた。窓硝子の半分は割れ、黒い板で塞がれている。 それでも、突き当たりにある両開きの扉だけは、不自然なほど形を保っていた。 曇った金属板へ、かすれた文字が残っている。 舞踊室。「ここ……」 奈々香が足を止めた。「覚えてる」 声は小さい。 左耳には美月が当てた薄いガーゼが残っていた。出血は止まっているが、何度も耳へ指を伸ばしかけては、途中で思い直して腕を下ろしている。「八年前に来たよね」「来た」 悠斗が答えた。 迷いのない声だった。「ここの鏡が七不思議の一つだった」 朔は扉の前でしゃがみ、下部へ懐中電灯を向けた。 細い隙間から、埃の積もった床が見える。 糸や配線はない。「どんな噂だった?」 美月が悠斗へ尋ねる。 悠斗は扉の取っ手へ手を掛けながら言った。「午前零時を過ぎて、鏡の前を全員で歩く」 低い軋みとともに扉が開く。「最後の一人だけ、鏡の中に残される」 舞踊室の暗闇が現れた。「残った奴は、翌朝までに消える」 澪の背中を冷たいものが走った。 部屋は細長かった。 奥行きのある長方形で、床には古い木板が敷かれている。壁際には朽ちた手摺が残り、その上を白い黴が這っていた。 そして、左側の壁一面。 端から端まで、巨大な鏡で覆われている。 幾つもの鏡板を並べて作られたものだった。 表面はところどころ黒く曇り、細かなひびも入っている。それでも五人の姿を映すには十分だった。 澪。 朔。 美月。 悠斗。 奈々香。 五人。 鏡の中にも五人。 赤い組紐の入った袋が、澪のポケットの中で僅かに冷たくなった。「当時は何も起きなかった」 悠斗が部屋へ入りながら言った。「澄花がふざけて隠れただけだった」 澪は顔を上げた。「隠れた?」「ああ」「ここで?」「そうだ」 悠斗は当然のことのように答える。「七人で鏡の前を歩いて、最後に数えたら六人しかいなかった。奈々香が泣いて、美月が怒って。あとで澄花が裏から出てきた」「裏って、どこ」「カーテンの向こうか何かだっただろ」 澪は舞踊室を見回した。 壁際にカーテンはない
最後の鍵盤が沈んだまま、戻らなかった。 音楽室の中には、逆向きに流れる少女たちの歌声だけが残っている。 声は天井のスピーカーから降っているはずなのに、澪には壁の内側や床の下、閉ざされた楽器棚の奥からも聞こえた。吸い込まれるような発音。終わった言葉から始まり、息継ぎまで逆へ流れていく。 五人は誰も耳を塞がなかった。 スマートフォンに届いた指示が頭から離れない。 途中で耳を塞いだ人は帰れません。 たとえ人間が作った脅しだとしても、透が死んだあとでは試す気になれなかった。 奈々香は両腕を身体の脇へ押しつけるようにして立っている。耳を塞がない代わりに、指先がレインコートの布を強く掴んでいた。「何か入ってる」 朔が言った。 胸元の小型カメラを外し、録音状態を確認している。「歌以外に?」 美月が問う。「低い声。普通に聞くと潰れてる」 朔はカメラから音声だけを端末へ送り、波形を表示した。 透ほど専門的な機材ではない。それでも映像制作の現場で使う程度の処理はできるらしく、朔は周波数を分け、歌声の高い帯域を少しずつ削っていく。 少女たちの声が薄くなる。 その下から、ざらついた息のようなものが現れた。「逆向きだから分かりにくい」 朔の指が画面を滑る。「戻す」 再生方向を反転させる。 さっきまで喉へ吸い込まれていた声が、今度は自然な歌になった。 古い校歌。 少女たちの合唱。 八年前に澪が廊下で聞いたものと同じだった。 胸の奥がざわつく。 窓の外では雨が降り続いている。楽譜の散らばる床を湿気が這い、腐りかけた木材の匂いへ、古いピアノの塗料と錆の臭いが混ざっていた。 歌声の下に、別の声があった。 小さい。 ひどく近い。『鏡を見て』 澪の肩が強張る。 朔が音量を上げる。『本当の人数は、鏡に映る』 音声が途切れた。 五人は同時に、音楽室の奥を見た。 壁際に、大きな姿見が立っていた。 澪は先ほどまで意識していなかった。 高さは一メートル半ほど。木製の枠は黒ずみ、上部の装飾が半分欠けている。鏡面には斜めへ大きな亀裂が走り、蜘蛛の巣状の細い割れが右下へ広がっていた。「こんなの、あった?」 奈々香が囁く。「最初からあった」 悠斗が答える。「入ったとき、壁際に見えた」「私は見てない」「見てないだけだろ」 奈々
ピアノは、同じ四小節を繰り返していた。 低い音から始まり、少しずつ高くなる。 途中で一度だけ旋律が途切れ、また最初へ戻る。 廊下の奥。 音楽室の方角。 誰もいないはずの校舎で、一つの鍵盤を人の指が押し、その余韻が消える前に次の鍵盤が沈んでいる。「行かないと駄目なの?」 奈々香がスマートフォンを握ったまま言った。「二つ目は音楽室って書いてあるだけでしょ。無視して出口を探そうよ」「さっき無視しようとして、教室の前へ戻された」 悠斗が答える。「なら、また戻されるだけじゃん!」「声を落とせ」「無理だよ!」 奈々香の声が廊下へ響く。「透が死んでるんだよ。なのに今度は校歌を聞けって? そんなの従ってたら、次に誰が死ぬの?」 その言葉に、全員の視線が担架へ落ちた。 相馬透。 美月の上着を掛けられ、簡易担架に横たわっている。 教室の出席簿では欠席とされ、死んだあとで自分の声を使って返事をした男。 朔が担架の端を持ち直した。「先に透をどうするか決める」「どうするって、運ぶでしょう」 美月が即座に答えた。「さっき決めた」「このまま音楽室へ運ぶのは危険だ」 悠斗が反論する。「狭い防音扉もある。何か起きたとき、担架を持ってたら動けない」「ここへ放置する方が危険よ」「死んだ人間が、これ以上危険になるのか」 美月の視線が冷たくなる。「遺体は証拠よ」「証拠?」「首の傷。磁気テープ。手指に残った傷。衣服。誰かが触れば変わる。私たちが外へ出て警察へ引き渡すまで、できるだけ状態を残す必要がある」「じゃあ担架で連れ回して、階段から落としたらどうする」「置いていけば、誰かに動かされるかもしれない」「誰が」 悠斗が苛立ったように周囲を見回した。「この校舎にいる犯人が?」「そう」 美月は迷わなかった。「少なくとも、透を殺すための装置を作った人間はいる。誰かが透明な糸を使った。小型モーターを取りつけた。放送設備にも細工した。人間が触った痕跡がある」 朔が二年七組を振り返った。 机が七つ並ぶ教室。 扉は開いたままだ。「ここへ置く」 澪が彼を見る。「大丈夫なの?」「扉を内側から固定する。窓も確認する。侵入されたら分かるように痕跡を残す」「私たちが戻れなかったら」 奈々香が言う。 朔は一瞬黙った。「戻る」 断